中国茶的日々

2005年に上海田子坊で中国茶の店『臻茶林』を始める。北京南鑼鼓巷、浙江省烏鎮、江蘇省天目湖に支店。

ボーダーレスがエネルギーを減らす

 少なくとも自分の子供の頃までは、生活の中に四季があった。

 春はいちご、春の訪れを感じる山菜が食卓に出る。夏にはきゅうり、トマト、桃、スイカなどが時期になると出てくる。汗をかきながら塩をふって食べるスイカは最高だった。昼の時間が長くなり、外遊びの時間が延長された。秋といえば梨、栗、冬になればミカンとリンゴ。

 今は栽培技術も保存方法も格段の進歩を遂げたことで、あらゆる季節のものがいつでも欲しいときに手に入れることが出来る時代になった。

 これは季節のボーダーレスだと思う。

 

 冷暖房設備も技術の進歩で日常生活に普及し、オフィスではいつでも快適な温度で仕事ができる環境は、暑さ寒さから逃れて仕事の効率をあげたが同時に季節感を奪った。

 

 人々は快適な室内で熱帯雨林も南極も海底世界さえも画像と音声で旅行ができる。テレビでロシアのW杯を見ながらドイツビールを飲みフランスのチーズを頂きデザートにタイのマンゴーが出る。

 これも国境あるいは地域のボーダーレスと言える。

 

 水は高いところから低いところへ向かって流れる。

 エネルギーは格差によって生まれると言うのは宇宙の法則である。

 負が有り、正があるから電力は生まれる。陰が有り、陽があるから調和もできる。

世の中の技術が進歩し、地域による格差が小さくなるのは素晴らしいことのように思えるが、実はそれは生命力というエネルギーを代償にしていると感じる。

 

 貧しい時代や地域の子どもは貧しさの中で食べたいものや欲しいものが明確に意識されるが、豊かな地域や時代に育った子どもたちには何が食べたい、何が欲しいと言う欲求が強くない。

 貧困地区や後進国の出生率が高いのは単に避妊技術の問題だけではなく、個人や種族の内部の危機意識が種の保存に向かわせているのではないだろうか。逆にいうと、豊かな環境の中では種を継承しようという意識や欲求までもが弱まっている、社会制度がどうとか、経済力がどうとか、言葉にすればそういう理由になるが、私の見解でみればそれらは種の保存に関するエネルギーの減少を弁解する為の体裁の良い言い訳に思えてくる。

 今の日本は100万人近い失業者、また100万人を超えるミッシングワーカーを抱えながらもいわば肉体労働と言えるレベルのワーカーが足りず移民受け入れの方向に向かっている。

 安い給料だろうが食うためにガンガン働かなきゃしょうがねえ!というエネルギーがすでにない。そして無理せずとも親や政府によって命が繋げられるので、いわゆるニートと言われる層は自分の世界から抜け出さず、抜け出そうともせず、あるいは抜け出そうとしても長い時間をかけて培われた無意識が心身に作用してそれをさせない。

 ニートを責めるわけじゃない、せめてもしょうがない。利益のためにどんどん資源を無駄遣いする社会で、有り余る資源が生み出したのだ。時代の落とし子だ。貧しい時代には生まれ得なかった層だ。

 迎え入れられた移民は体力で稼ぎ、そのうち知力でも稼ぐようになり経済力をつけてくると今度は日本人に妬まれるようになる。彼らのお世話になりながらも彼らが自分より豊かになると陰口を叩きたくなるのは国を問わず人間の悲しい性。少なくない日本人が生活保護や年金で細々と暮らし、移民たちはよく働きよく稼ぎよく税金を収め、大手を降って跋扈する図が想像に難くない。

 

 諸行無常の響きあり、奢れるものも久しからず。日本人はみんな知っているはずだ。

 繁栄の後の衰亡を諦めて受け入れるか、運命に抗うべく敢然と立ち向かうか。人口は減り高齢化の進む日本で近い将来再び繁栄に向かうという構図は、政治家が何と言おうとも今の所考えられない。資源を輸入に頼る日本において、膨大な天然資源が見つかったとか、有効な持続可能再生エネルギーが開発されるとか、大事件がない限りはあり得ない。

 

 大局は以上のごとく決して楽観的なものではない。

 ならば自分はどうするか、各論は自分で構築するしかない。

 衰亡に向かう世の中で絶望して命を絶つものもいる。自らの不遇を社会のせいにして無差別に道連れを伴い破滅するものもいる。なるべくエネルギーを抑えて穏やかに乗り切るものが増える。社会の風潮に流されず自らの能力を最大限発揮して生き抜いてやろう!というものも中にはいる。

 要するに、どんな社会情勢だろうと、自分の人生は自分のものだ。どんな境遇であれ自分が自分の主宰者でなければ意味がない。それはある意味大変なことで、何か別のものあるいは宗教やカリスマに頼りたい、他人に言われた通りに実行しているのは楽だ、自分に責任がないから。ただ、それで自分の人生と言えるのか?オウム真理教やいろいろなカルト系宗教はそういう心の隙間をついて信者を増やす。

 私の答えは簡単。

 同じ一生与えられた時間なら、なるべく笑っている時間を多くしよう。笑っていても泣いていても、恨んでいても時がくるとこの世とおさらばしなければならない。ならば辛い時間をなるべく減らして楽しい時間をなるべく増やし、死ぬときには「ああ楽しかった」と言って去りたいものである。