中国茶的日々

2005年に上海田子坊で中国茶の店『臻茶林』を始める。北京南鑼鼓巷、浙江省烏鎮、江蘇省天目湖に支店。

中国と日本の”うち”

日本語で”うち”というのは必ずしも家のことだけではない。

「うちのほうでは」自分の故郷を指すし、「うちの会社」「うちの学校」を意味する”うち”例えば「うちにはそういう人はいませんねえ…」などは自分の所属する共同体を指す。

目に見えない境界線があって、その線から自分側は”うち”、それ以外は”ほか、よそ、お宅”などになる。

 

中国でもその境界線はあるし、うちとそとの区別は日本より強いように感じる。

うちのつながりはより強く、そととの関係はより排斥的になる。

 

こちらでは毎年旧正月には都合がつく限り必ず帰省し家族で正月を過ごす。

日本もかつてはそうでしたね。

 

あと、中国はうちの者同士で共有しようという意識が強い。

例えばお酒を飲むとき、

日本は最初の乾杯が終わるとあとはマイペースで飲む。

中国はずっと乾杯が続く。グラスを持ったらたいてい誰かを誘って2人以上で乾杯、一人で淡々と飲む習慣はない。

 

たばこも、日本だと吸いたいときに吸える場所へ吸いに行く。

中国は煙草を勧めるのがマナー、男ならまず相手に煙草を勧める。

たばこを吸わないのに煙草を持っていて、客に煙草を勧める営業マンもいた。

何人かのグループでは、誰かがタバコを取り出して全員に自分のたばこを配る。

 

思うに、それは”うち”と”そと”を分けるためのツールとして使われているようである。

煙草を共有したり、お酒で乾杯したりすることでお互いに”うち”であることを確認あるいは相手にPRして、身内意識を醸成しているのだと思う。

 

あるいは、中国人がバイキングの際に食べきれないほど料理を取って大量に残してしまう問題の根も、そのあたりにあるのかもしれない。

日本だとおかずは一人分ずつあらかじめ取り分けてあるが、

中国はいくつかの大きな皿にそれぞれ違う種類のおかずを盛り、みんなでいただくのが普通で、自分の分だけ準備するという習慣がない。

日本人には自分の食べられるだけのおかずを取り、残さないようにいただくという常識がある。

中国人はおいしそうなものをみんなで一緒に食べようという気持ちが普通なので、それが料理を取るときに自然と食べきれない量になってしまう。

逆に自分の分だけとってきて食べる人は”うち”の中ではちょっと違和感を感じる。

 

中国での人と人との距離感は”うち”がわでは日本より近い、あるいは昔の日本に近いといえると思う。

今の日本の親子関係は、こちらにいる私から見るととても家族とは思えないほど疎遠に見える。

気の使い過ぎ?

もっと甘えてもいいんじゃないの?

家族なんだから。

でも今の日本は個人を尊重する社会であり、親や子供の生活にあまり立ち入らないことがいつからか常識になってる。

 

これはいい悪いの問題じゃなく、最後は好き嫌いの問題だと思う。

日本にいるときは当たり前と思っていたが、中国に来て改めてそう思うようになり、

そして私は多少面倒くさいけれど家族の関係が強い方が好きだ。

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