六、四国遍路の旅(1)東京
寮を出て三日目。
出発のときから降り続いている雨は一向にあがる気配はない。
二日間、30キロの荷を背負い都内をうろつき回ったが、まだ勝手がつかめない。
荷物はだんだん重くなり、気持ちも沈んで行く。
出がけにいただいたたくさんのおにぎりも底をついた。
まだ東京を出られない。
今朝から何軒か廻ってみたが駄目だ。
神社の軒下で雨宿りをしながら、後輩たちがくれたビスケットで朝食。
あまり食欲がない。
鳩がきた。
食卓はにぎやかな方がいいので、砕いてやる。
するとどんどん増えてきて、雀までやってきた。
足がしびれたのでひょいと立ったらみんな逃げてしまった。
じゃあ行こうかと、目の前の家に声をかけたら神主さんのお宅だった。
私:おはようございます
どうぞ
遠くから声がする。
障子で仕切られていて見えないが、かまわずふすまキャラバンの主旨をお話しした。
ちょっと見てくれ
声が近づいて来たときはドキドキした。
教室の押し入れ4枚と洗面所の壁紙のご注文。
ありがたい!やっと仕事をさせていただける。
お昼にはそばを、三時にはアイスクリームとお茶を差し入れしてくださった。
昨日までの八方ふさがりの心境が一転して天国にいるようだ。
あとで伺ったところによると、この教室は今年中に取り壊す予定になっているそうだ。
仕事を終え、お金をくださる時、なぜすぐ壊す部屋のふすまを僕に張りかえさせてくださったのか聞いてみた。
君を応援したくて
神主さんはおっしゃった。
ふすまキャラバン
中国に来て14年。
身一つで転がり込み、文字通りゼロからのスタート。
こちらに来てから家を成し、事業を成し、今がある。
少なからぬ人から、中国人は信用できないとか、騙されたとか、そんな話を聞く。
ただ、私の場合は人を信じることによってこれまできたように思う。
小さい頃祖父が言っていた、「騙すよりは騙される方がいい」という言葉が今も心に染み付いている。
事業を進める方針も、 いかに相手から有利な条件を引き出し利益を上げるか、ということよりも、 いわゆる『三方良し』、お客様も喜び、スタッフも喜び、それが社会にとっても有益であるという前提で歩んできていると思う。
なぜだろう、私の周りには信頼できる人しか縁が続かない。
腹に一物あるような人は近づいて来ないか、きても自ずと離れてしまう。
恐らく、 人というのは臭いがあって、 同じような臭いのするところに引き寄せられる習性があるのではないか。
私が東京に住んでいる頃、 早稲田大学ホームサービスグループに所属していた。
そこで私はふすまの張り替えなど内装の仕事で学費や生活費をみんなで稼ぎ、 堀越先生の薫陶のもとで学生生活を送った。
打算を捨てろ
よく先生がおっしゃっていた。
今の世の中、「夢を持て」とか「目的に向かって計画的に行動しろ」という言葉にうなづく人が多いが、私はあえて言う、「夢や目的なんて捨ててしまえ!」
目の前の課題に全力で取り組みなさい。道は自ずと開ける。
今しなければならないことを真剣にやっていれば必ずそれが次のステップを導いてくれる。
どんな難題も、乗り越えたあとにはそれは自分の大きな力になっている。
だから、夢や目的が定まらないというのは決してかっこうわるいことじゃない。
逆に、課題を解決してゆくうちに自ずと夢や目的は生まれてくるものだ。
グループ時代に『ふすまキャラバン』という企画があった。
ふすま張りの道具と多少の材料を担いでお金を持たずに各自の目的地まで旅をする、という企画。
このふすまキャラバンが私の信念、堀越先生の『打算を捨てろ』という教えの象徴ともいえる。
メンバー数人の旅の記録を集め自費出版した、私にとっても唯一の出版物である。
いま、 現代の若者(日本人中国人問わず)に一つの生き様を伝えんと思い、完成された出版物を電子文字にして新たな命を与えたい。
同時に自分の若き頃を追想してみたくなった。
2016/4/8未明
早稲田ウィークリーの記事
http://www.waseda.jp/student/weekly/contents/2011a/1247/247e.html
スマホがないと成り立たない中国
今週から小学一年生の宿題の一部がスマホのアプリになった。
英語の単語や単文の発音練習、アプリを開いてサインインし、スマホの発音を聞いて自分も発音する。それは録音され、先生もチェックできるというシステムらしい。
今の中国では、スマホがないと子供の宿題ができない。
上の子が入学したときにはまだ携帯の一斉メッセージで先生からお知らせがきたが、
今では全てwechatに切り替わり、クラスのグループに属さないといろいろ都合が悪い。
中では専業主婦のおしゃべりから先生の一言にいかに早くお返事ヨイショをするかという世界で私は見たくもないので家内にお任せしてる。
スマホは便利、の時代からさらに今やスマホがないと困る時代になった。
そんな中でも中国らしくておかしいのは、
英語の教科書を購入したときについている副教材がなんとカセットテープという前近代的なシロモノ。
ビデオテープの時代を経ずしていきなりdvdが普及した中国、固定電話をすっ飛ばして携帯が必需品となった中国で、いったいどこの家庭にカセットテープレコーダーがあるというのだ?
ラジカセなんて日本でも死語、中国でなんて生まれさえもしなかった言葉。
恐らく99%の上海の家庭ではテープではなく教科書のサイトからダウンロードするなりオンラインなりで聞いていると思う。
しかし、それでは毎日聞いているかどうかは先生も把握できない。
こういうアプリになると誰がやってないかすぐに先生にわかってしまうので一定の強制力はあると思う。
でも、正直小学一年生にここまでがっちり宿題をやらせる必要もあるのかなあ、とも思う。
うちなんか双子だから、一人につき一つの携帯番号が固定されるので、宿題が一緒にできないのはちょっと面倒。一人が終わって、一度サインアウトしてそれからもう一つの携帯番号でサインインする。
学校の先生はいい生活習慣を身につけること(つまり宿題をちゃんとやること)が子供のためになると親の尻をたたくが、私は奴らをいかに遊ばせるかということに腐心している、不良親ということになるだろう。
(写真は去年、北京郊外にて)
抗生物質は毒でもある(かも)
私は医者でも科学者でもない、ただの生活者である。
なので何の医学的根拠も科学的裏付けもないが、あえて経験的推測でものを語る。
先日、子供の手が爛れて、皮膚科に行った。
手足口病ではないかと思ったから。
足や口は異常はなかったが、指先が爛れてじくじくしていた。
一件目の病院で貰った薬が効かないので、別の児童専門病院に行った。
皮膚科の医師から伝染病科に行くようにいわれ、血液検査の結果、しょうこう熱だと宣告された。
そこで抗生物質を10日間朝昼晩と飲み続けた。
3人の子供が全員しょうこう熱に伝染した。
学校は3週間休んだ。
クラスは消毒され、子供の在籍するクラスは登校時間や休み時間をずらして他の子供と接触しないよう配慮された。
ウィルスが体内に残っていないという証明を貰い、子供たちが登校して1週間くらい経った頃、 子供たちの異変に気付いた。
小4の娘が、急に身体にじんましんのようなブツブツが出始めた。
病院で検査すると、海鮮アレルギーなので魚介類は食べないように、と言われた。
これまでそんなことはなかった。
しょうこう熱のせい?
小一の双子の息子たちにも異常が起きた。
病気療養期間中の爪の製造細胞がどうもダメージを受けたらしく、ちょうどその頃に爪細胞が生み出したであろう部位に異常が見られた。
しょうこう熱のせい?
私にはどうも、しょうこう熱のウィルスを撃退するために服用した抗生物質が、体内の免疫力や爪製造細胞にダメージを与えたのではないかと思える。
私の経験や知識を統合して演繹するとそう思えるので、強くは主張しませんが。
日本ではアレルギーの子供が増えていますが、ひょっとして抗生物質と関係があるのではないか、と、憶測したりもする。
生活環境が奇麗になりすぎてちょっとしたばい菌にも過敏に反応するようになったんだ、と思っていたけれど、 実は薬で免疫力を攻撃してこういう事態になっているのではないか、と。
薬は毒でもあるとは、昔から言われていることですが、 伝染病とか仕方ないところもありますが、 普段はなるべく薬を飲まずにすむものなら軽々しく飲まない方が身体のため、と、 改めて思いました。
さて子供がアレルギーから脱出することができるのか、 このままずっとこうなのかあるいはいつか免疫が復活してお魚がおいしくいただけるようになるのか、 親としては気がかりなところ。
story2 ハーブティー
「いくぞー」
父は竜平にボールを投げた。
「あっ!」
竜平が取り損ねたボールが花壇の中に消えた。
「へたくそー!」
そういいながら父は花壇に向かい、竜平と一緒にボールを探し始めた。
「父さんがコントロール悪いからじゃない!」
天気のいい日曜日、家族で郊外の公園に来て父とキャッチボールをしている。
「ハーイ、休憩。お茶の準備ができたわよー!」
簡易テーブルの上には母の手作りチーズケーキとハーブティーが置かれていた。
「えー、僕コーラ飲みたい!」
「だめよ、ウチはそういうの買わないの!」
軽く汗をかいた身体にハイビスカスの酸味が意外と心地よい。
氷砂糖のすっきりした甘みが体力の回復を加速するように感じた。
めまぐるしい都市生活の週末に竜平はそんな子供の頃のことを思い出していた。
会社勤めの彼は、営業マンとして日々顧客回り、 暑い夏も背広を着て汗をかきながら一軒また一軒とお得意様を訪問する。
昨日の訪問先でたまたまハーブティーを出され、 帰りがけに材料を調達し今朝は久しぶりに昔母の淹れてくれたブレンドを自分で再現してみた。
今日は天気のいい日曜日。
久しぶりに公園にでも行ってみようかな。
「こんばんは」って何よ?
先日、家族を連れて大雪青少年交流の家に4泊した。
北海道の大自然を堪能させたいという気持ち、
規律正しい生活の中で自分のことは自分でやる生活習慣になじませたいという気持ち、
他の日本の子供たちと交流させたいという思いからである。
朝6時半起床、歯磨き洗面部屋の掃除、終わってからグランドに集合して君が代のなか国旗掲揚、食事、そこから一日の計画が始まる。
宿泊しているのは大学のサークル、先生率いる小中高の生徒、福島の被災地の子供たちも夏休みの企画でいっしょだった。
日本各地から水泳部、バドミントン部、運動系文科系様々な団体がきている。
なかでも北大のマンドリン部は100人近い団体だったのには驚いた。
所内ではすれ違う宿泊者には必ず挨拶をする。
夕方の集会が終わってから、食事や浴場へ行く際に多くの若者とすれ違う。
私「こんばんは」
若者「こんにちは」
最初は何だ挨拶も知らないのかと可笑しかったが、 挨拶するたびにこんにちはと返ってくると、なんかこっちが変なのかと思えてくる。
芸能界が夜でも「おはようございます」と挨拶するように、これがこの施設のルールなのか?
それとも現代日本の流行か?
新しい若者言葉か?
私がいない間に日本語が変わってしまったのか?
看護婦さんとかスチュワーデスとかいまは使わないらしいしな、 そう思って事務所に行って聞いてみた。
「ただ単に挨拶を知らないだけなんですよ」
・・・まじ????????
・・・大学生でしょ?
夜は自宅で受験勉強してるから誰にも会わなかったってか?
こんばんは、を、知りませんか?
そう、具合の悪い状況も急激に心を捕まえられた状況も「ヤバい!」という言葉で表現できるように、 朝でも昼でも夜でも「こんにちは」で済んだら、楽ですよね。
楽ですかね?
そりゃ外国人の日本語学習者にとっては楽かもしれませんね。
でも国語のボキャブラリーがどんどん減ってしまうのは、 言葉による表現方法が少なくなってしまうことで、 文学も歌も日常の会話すらも味気ないものになってしまうと思う人は、 私だけじゃないと思うけど。
あのとき事務所に聞きにいかなかったら俺も「こんにちは」に変えてたかもしれなかった・・・
最後に、施設も自然環境もとても素晴らしく、充実した5日間を過ごさせていただきました。
(高校の時スキー研修で行って以来、実に35年ぶり!)
職員の皆さん、うちの子と遊んでくださったお兄さんお姉さん、ありがとうございました!
日本へのお茶の発送
ZHENCHALIN 様
はじめまして。 メールにて失礼致します。
私、日本からご連絡させていただいております〇〇と申します。
さっそくではございますが、お茶のお取り寄せをお願いしたいと 思っておるのですが、通販はしていらしゃいますでしょうか?
というのも、先日知り合いから上海のお土産でいただいたお茶が ZHENCHALIN様のもので、とても美味しかったので是非もう一度 飲みたいと思い不躾ながらお問い合わせさせていただいた次第です。
ちなみに、Special Teaの購入を希望しております。 (他も気になっているのがあるので増えるかもしれません。)
お手隙の際にでもお返事いただけると嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
こういう反響はうれしいですね。
送料がかかっちゃうので一つ二つだとちょっと割に合いませんが、
見積もりとお茶の発送させていただきます。
シェアリング時代
時代は急速にシェアリングに向かっている実感。
今回宿泊先を決めるのに利用したairbnbも、基本は自宅の空き部屋を提供して旅行先の他人の空き部屋を利用するシステム。ルームシェアの世界規模ネット版ともいえる。
uberは空いている車と時間を使って客をのせる、広い意味でのカーシェアといえる。
ただ商業色がちょっと濃い。タクシーより便利に、安く、ということで既存の業界に競合する。
ルームシェアやカーシェアは実社会でもネット社会でも確実に進んでいる。
今回宿泊した加賀山中温泉の旅館、規模の大きさと旧態依然としたサービス、客も従業員も平均年齢60歳を超えている現実、利用客の少なさ、まるで氷河期を迎えた巨大恐竜のように感じた。
自然環境は素晴らしい、渓流沿いの露天温泉につかりながら蛍が見られる温泉宿。
ただ、いくつか気付いた点を上げると、
二人で宿泊するのに20畳ぐらいもある部屋、さらに使い道のわからない4畳半の部屋もついている。仲居さんに聞いたらこれで一番小さな部屋とのこと、豪華さの演出も私には無駄にしか思えない。
食事は夕食朝食と部屋まで運ばれる。部屋でゆっくりくつろいでとの気遣いと思うが、
料理の量が半端じゃない。
私でも食べきれないほどの量、これが高齢者にも同じものが出ているのだから、恐らく半分以上は捨てられることだろう。
高齢の仲居さんが一人で運んできていったん戻り、揚げたての天ぷらを持って再び参上する趣向。食べきれない料理を前に贅沢な時間をお客様に堪能してもらうのがホテルの使命であるようだ。
洗い物したり配膳する係の人も恐らく目がよく見えないのだろう、スプーンやお皿が汚れたままお膳が運ばれてきた。
値段は、温泉旅館ということで一泊一人1万円前後から、2~3万円台くらいの間。
これだけ巨大な施設にこれだけのサービスを提供するにはこのくらいの料金は必要最低限だろうと思う。
ただ客が少なすぎる。今こんな温泉宿に泊まりにくるのは定年退職で時間もお金もある団塊の世代以上の高齢者のツアーしかない。
部屋はでかいががらんとしている。
床の間にはかけっぱなしの軸はあっても一輪の花を飾る体力も気力もすでにない。
実際につぶれてもう3~4年経つという巨大ホテル『百万石』がもの言わず温泉街を見下ろしていた。
(恐らくバブル期から毎日演奏しているであろう自動ピアノ。か弱い音色が積年の疲れを奏でているように感じた。)
もう巨大建築や巨大組織の時代は終わった。
これからは目の届く、身の丈に合った施設や組織の時代になる。
ホテルもマンモスではなく、氷河期に対応できる小回りのきく生き物じゃないと厳しい。
オーナーが自分の思いを具現化でき、目の届く範囲で管理ができる建物やシステムが主流になるだろう。
そこでいかに個性的な空間や気持ちのよい空間を作り、その居心地の良さをシェアという形で客と共有する。
ホテルだけじゃない。
カーシェアも日本では現実に自分の車を空き時間に必要な人に提供するというプラットフォームが既にある。
車をより個性的に装飾してレンタカー業界とは違うマーケットを狙えそうだ。
トヨタも日本ではカーシェアのノウハウがないと遅れをとるということで、
某パーキング会社と提携して電気自動車のお気軽乗り捨てレンタカーを始めるとのこと。
例えば映画館や野球場などもある会社に登録して空き時間をいろいろなイベントに使ってもらえるよう手配する、そんな新しい空間シェアの会社もできたようだ。
レンタルといえば貸衣装は昔からあるが、最近は仮想恋人のレンタルまである。
時間いくらで性のサービス以外は恋人と同じような時間を提供してくれる時代。
今後あらゆる分野でシェア化が進んでいく。
その時代の変化をしっかり見極めながら進路を決めないと時代に取り残されてしまう。
挨拶って?
挨拶。
自分ができているとは言わないが、
挨拶のできない人を見ると残念に思う。
先日、年に2〜3回ご注文をいただく日本の会社からの注文でお茶を準備しているとき、
ちょうど新茶が出始めた頃だったので荷物の隙間に手紙を添えておすそ分けさせていただいた。
「今年の新茶が出ました。中国の春の香りを社長様や皆様とお楽しみください。」
その後、荷物は届いたという連絡はいただいたが、
それ以外のことは一切書いていなかった。
こういうのは、損だと思う。
お金をいただいて商品を発送するのは機械でもできる時代。
あえて気持ちを添えたつもりが、
無視されたことで逆にマイナスイメージに変わる。
以後絶対サービスしたり気にかけたりするもんか!
お金をいただき、商品を送るだけ。
もしそこに一言でもお礼があれば、
「ああ皆さんで飲んでくださったんだな」と思い、
プレゼントしてよかったな、
今度また機会があれば何かしてさしあげたいな、
思いに応えることが新たな思いを生む。
思いをかけ、かけられる、そういう人が増えれば、
人生もっと豊かになる気がします。
鼻みず考
ヘーックショイ!
花粉症の(症状の)季節が来た。
私が上海に来た当初はくしゃみ鼻水が発症せず、中国に花粉症はない!と豪語していたものですが、
ここ数年は春になるとまた出るようになった。
私が北海道にいる頃にはなかったこの症状、
東京に出て数年後、車を運転していていきなりくしゃみ鼻水が始まった。
個人的体験から考えても、
排気ガスと花粉が混じり合ったものが身体に蓄積して発症するという説がしっくり来る気がする。
今は花粉症の症状を止める薬や治療法がいろいろとあるのでしょうが、
私は積極的に治療しようとは思いません。
人間の身体は身体に害をなすものを排出しようとする。
嘔吐や下痢もその反応の現れだと思うので、
よっぽど何日もひどく続かない限り下痢止めは飲まない。
鼻水だって、
鼻の中に付着したおそらく花粉と排気ガスの混ざったものを一生懸命洗い流そうとして発生するのだろうし、
くしゃみも気管に付着したなにかを体外に出すための反応だと思うから。
それらを薬で止めるのはそういう身体の反応を止めることになるので、
実は身体に良くないんじゃないかと思って。
もっとも、
仕事に差し支えが出たりここは一発決めねばならんというときには薬の力もお借りしますが。
ふだんは、マスクで一次防御する程度で後は自然に任せています。
くしゃみ鼻水を楽しみながら春を感じています。
写真は西湖湖畔のユースホステル。素敵なところです。
本物と偽物
日本では考えられないが中国では常に気になる。
目の前に売られているものが本物か、偽物か。
偽物は買いたくない。本物を買うためにはどうしたらいいか。
信頼できる人に紹介してもらうくらいがせいぜいできることですが、
それも一過性のものに過ぎず、
つまるところは自分の眼力を高めるしかありません。
食べ物でも賞味期限が切れたら捨てるのは馬鹿でもできます。
まず開けてみて、臭いを嗅いだり、色を見たり、触ってみたり、五官を使って確かめる。
そうすることが地球の限られた資源を大切にすることでもあり、いたんだものを食べないということが本来の自己を守る力でもある。
判断力というのは本を読んで身に付くものではありません。
自分で体験して、その体験を重ねることではじめて自分なりの判断基準ができる。
現代社会はその判断基準を身につけることをさせないように、製造者や販売者に責任を負わせることで一見消費者を守っているように見えますが、
実はそうして消費者に判断させないことによって企業や工場の利益を守っている、ともいえます。
おや、ちょっと脱線してしまいました。
つまり、本物を買う、いいものを買うためには人に頼らず自分の眼力を高めるしかない、ということ。
そのためには、偽物をつかまされるのも言い方は悪いですが「勉強」だといえます。
勉強するためには授業料が必要です。
いわば買った後でその価値がないとわかったとしたら、買い物失敗ではなくそれは授業料を払ったという訳です。
だって、それを買わなかったらそれが偽物だってわからないわけですから。
そう考えると腹立たないでしょ?
失敗を恐れず、いいと思ったものは買ってみる。
使い込んでいるうちにおのずとわかる。
それから次のステップに踏み出せる。
そうして最後までたどり着く人が、本物を手にする価値のある人だともいえます。
日本は茶道、中国は茶芸
中国に茶道はない。
最近中国茶道という使い方をする人もいるが、それは日本に茶道があるから中国にもあるだろうと思う人、あるいは日本にあるんだから中国にもなければならないと思う人、かな。
道と芸、どう違うのか。
日本には柔道剣道華道茶道、道だらけ。
でも中国にはそういう道(タオ)なんてない。タオと言えばあるいはその辺の道路か、あるいは宇宙や自然を支配する法則か、いずれにしろ人間の行為にタオという文字はそぐわない。
私が考察するに、道と芸を並べた場合、芸というのは人に見せる技術であり、道というのは自己の内面を研鑽することであると思う。
武道はいかに敵に勝つかという武術の時代を経て、自分に勝つ(自己を律する)という内面に向かってできたものゆえ、武道なのだと思う。
華道もいかにきれいに見せるかを競ううちは華芸であり華術であり、それが花という対象を通して自分の内面と対話しながら自己を高めるようになるのが華道なのだろう。
自己の核心が宇宙の法則と合致すると感じられたとき、タオと呼ぶに値すべきものとなる、だから道なのだろう。
日本は趣味にしろ仕事にしろギリギリまで極めようと努力する文化があるのが素晴らしいと思う。
豊かだからかな。
明日の食い物どうしようという状況じゃなかなかそういう文化育たないような気がする。
おそらく中国はごく一部の層を除いて生きて行くのに精一杯でそういう道を極める方向に向かわなかったんだろう。
それより芸なり術なりを磨くことで飯の種にもなろうというもの、
金は盗まれるが芸や術は盗まれにくい財産ともいえる。
いま中国の茶人たちも日本風を取り入れている。
素朴風とでもいおうか、茶器や茶席から飾り気をどんどん省いて純粋にお茶を楽しもうという方向性。
色を完全に取り除いた景色に一輪の花を置く。
こういう状況を目の当たりにして、シンプルな美しさに対する感性に国境はないんだなと思いながら、日本が一歩先を歩んできたことが誇らしく思えたりもする。
2012年末所感
あの頃は絆という言葉が流行っていましたね。
昔の記事を回顧していたらこんなのが出てきた。
ゆがみてふたのあはぬはんびつ
とっくに捨て去ればいいものだがただ捨てるのももったいなく、何か工夫の仕様で使い道がないか頭ひねって考えて、思いを十分にかけてあげるのがこれまで自分のために尽くしてくれた物たちへの感謝であり同じ世界に存在するものとしての作法である。
物の豊富に有り余る今、意図するしないに関わらず様々な役目を持った物たちが自分を助けてくれ、役目を終えて感謝もされずに去っていく物もあれば次に備えてそばで待機してくれるものもある。
大量生産大量消費という欧米スタイルが何の疑いもなく世界中で是とされてきた。
経済活動が人間の幸福を増大させると信じて歩んできた現代文明。
確かに生活は便利になり人は安楽な生活を享受できるようになったが、
その代償として失ったものの大きさを意識する人は少ない。
経済が人間を豊かにさせてきたのに、今や人間は経済の奴隷のごとし。
最近の天変地異の異常さはもし神なるものが存在するとしたらあるいはそれが人にそのことを思い出させようとしているのかもしれない。
思い上がるなよ、お前たちの築いてきたものなんて一瞬で消え去るもの。
2012年はマヤ暦で世界の終わりと言われている。
2013年から始まる新しい世界においては、本当の絆の大切さ、家族の絆、友人の絆、動物や植物との絆、何も言わず自分を支えてくれているものたちとの絆、それを一人一人が心の底に据えて一日一日をいとおしんで暮らすようになりますよう。
上海お寺参り事情
今日は旧暦の正月5日、中国では財神の誕生日ということで、
社長も庶民も今年一年のご利益(文字通り!)祈願にお寺参りに行く方が多いです。
昨夜は前夜祭(イヴですね)で、財神を迎える爆竹がまるで地鳴りのように上海中に響いていました。
で、
私も今日、店に行く途中にある龍華寺というお寺にお参りに行ってきました。
余談ですがこちらに来る前は中国は共産党の国だから、宗教なんて否定されてお寺なんかないんだろうと思っていましたが、
やはり庶民の信仰心を完全に消し去ることはできなかったのでしょう、上海にもいくつかお寺は残っています。
香港や台湾は至る所に古いお寺がありますね。
こちらでは古寺というのはあまり見られません、お金ができれば古いのをぶち壊して鉄筋コンクリーのすごいの建てるのがいまだ主流のトレンドなので。
それにしても今回はお寺の商業化ぶりにびっくりです。
以前は門前でお香料(20元=約400円)を払ってお線香をいただけたのですが、今日は何もくれない。
中に入るとお線香売り場がありお線香3本で20元から。
仏様にお線香あげるのが目的できていますから買わない人はいません。
その上入場口に「自前のお線香は持ち込み禁止」と張り紙がしてあります。
で、
お寺の境内に入って最初に迎えてくださるのがこちらでいうところの「弥勒」、
太ったハゲ頭のおじさんがガハハと笑っている金ピカの神様です。
中国の福の神ですね。
「よくきたなー、賽銭がばがば入れてけよー!」と言われてる感じ。
お線香に火をつけてお賽銭を入れ、こちらの作法で三回お辞儀をしてお参りします。
いくつかのお堂が直列に並んでいて、人ごみに押されながらそれぞれのお堂に鎮座まします神様仏様をお参りしながら進みます。
お寺だけど、道教の神様も仏教の神様もたくさんいらっしゃる。
たくさん賽銭箱がある。
最後のご本尊をお参りして、出口の精進料理屋で年越し麺を食べていつも帰るのですが、これがまた高くなってる。いわば野菜椎茸キクラゲソーメンが一杯30元(600円くらい)、市場価格だとおそらく10元程度で食べられそうな麺です。
学生食堂のようにならんで食券を買い、カウンターで麺を受け取り、空席を探して腰を下ろし、食べたら食器は自分で下げる。
厨房も10人以上のシェフおじさんおばさんが、麺をゆでる係、どんぶりに分ける係、キクラゲ係、椎茸係、など、まるでトヨタの工場を思わせる流れ作業ぶり。
まあ年に一度のことなので散財してきましたが、
来年は別のお寺にお参りに行きそうな気がします。